『東京ラブストーリー』(本家)をappreciateして その現象学的考察、省察 浮浪の哲学者

東京ラブストーリーを観た。

説明不要の名作だと思うが、2001年生まれの私の周りには知っている人はそれほど多くなかった。

それもそのはずで、毎日ごまんと生産される文庫本、映画、ツイート、YouTube 動画。

このようにコンテンツが無限と言っていいいほど溢れる現代社会で、1人の人間が鑑賞できる過去の名作など限りがあるし、人の好みは十人十色だと思う。

話を変えよう。

このような過去の物語作品の鑑賞において必ず出現するのが、過去を絶対的に美化する人間です…

ここで特に問題にしたいのが恋愛ドラマによくある「行き違い」だ。

東京ラブストーリーの第2話のラストシーンでは、リカとカンジは食事の約束をするが急用が入り、カンジは付箋でその旨を伝える。しかしリカは付箋を段ボールで覆ってしまい、リカが長らくカフェで夜遅くまで待ちぼうけを喰らう、という具合だ。

このような状況下で、少なくない現代人は、「今だったらスマホがあるからこのようなことは起きない。むしろこのような行き違いがあるからこそ一期一会を感じたし、人との温もりもあった。」

と言う。しかしこれは哲学的に全くの間違いだ。確かに情報技術の進歩によって人との出会いは円滑に、かつ確実になった。

しかしながら彼らにとっては、付箋が技術の限界であるのだから、それによって煩わしさや歯痒さは感じることはできない。

(もっとも、1990年代には携帯電話は存在していたためにその存在を理想状況として歯痒さを感じれるのは可能かもしれない。)

全く反対に現在のスマートフォンで自分の夢映像化できないことは未来人にとって歯がゆいことになり得るかもしれない。